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仁王門は、寛文5年(1665年)の絵図により、単層八脚門切妻造り、檜皮葺きあるいは柿葺きであったが、寛延3年(1750年)に入母屋造り本瓦葺きに改められた。平成19年の「平成の大修理」では、破損、腐朽の部分を補修し全面本瓦葺きとなった。
仁王像は、地元の人からは「おにょう様」と呼ばれ、阿形像は像高2.89m、吽形像は像高2.93mである。元禄10年(1697年)に尾張熱田の仏師箕輪幸慶によって再造彩色されていたが、平成20年に解体大修復により室町時代後期の造立当時の姿に戻された。
室町~江戸時代。仏像群は火災の際、本堂の東、金剛坊の林の中へ避難して無事焼失を免れて現在、本堂に安置されております。「本尊」「日光」「月光像」「十六善神」は室町時代後期の作と伝えられています。また「四天王像」「十二神将」は神篦城主の土岐三兵信友が仏師5名に命じて作らさせたと伝えられております。
江戸時代。桜堂薬師の絵馬は7枚が現存しており、本堂回廊に飾られている「慶長絵馬」(岩村藩主松平氏が奉納)・「寛文絵馬」(岩村藩主丹羽氏が奉納)・「享保絵馬」(風俗絵馬、名古屋の薬問屋が奉納)・「文政絵馬」(松に鷹図、岩村藩主松平氏が奉納)は市、県の重要文化財になっており、県内屈指の絵馬の宝庫と言われております。
平安時代、元慶3年(879年)。岐阜県最古の在銘石造物。弘仁3年(812年)に法妙寺(桜堂薬師)を開いた高僧三諦上人の供養塔。当時法妙寺は比叡山、高野山と並んで日本三山の一つと称された。
元亀2年(1571年)信長により焼失してしまった薬師堂を、天台の僧永秀阿闍梨が復興を決意するが、病を患い余命の無いことを悟り比叡山より弟子の賢秀を呼び再建の願望を一言伝えて逝去した。賢秀は師の願望を聞き当時の岩村城主丹羽式部少輔氏澄公共々復興に心身を賭した努力により、寛文4年には御開帳が行われ、岩村城主からの宝物の寄進、金銭の献納者、参拝者も益々増加、門前市を為すと言われるまでになり、寛文7年には見事に復興再建された。そうした賢秀師の遺徳を偲びここに供養塔が建てられた。
岐阜県重要有形文化財(工芸品)指定。能楽面とは、奈良時代中国の唐から伝来した舞楽に使う面のことで、舞楽の動作に合うよう象徴風に造られています。わが国でも最も盛大に行われるようになったのは、平安時代で宮廷や神社、寺院などで行われ、この時代の代表的な舞楽面は春日大社、厳島神社、法隆寺などに残っています。当薬師の舞楽面のうち、「羅陵王」、「納曽利」の二面は、顎が動くように造られており、「抜頭」を加えて三面が残っていることで、岐阜県としては誠に珍しいものです。このうち、「羅陵王面」を例にとると、鎌倉時代の作りと推定されており、技法は精巧で、漆が用いられて盛上彩色がなされ、材は檜、内面は麻布が漆で固め張られています。この「陵王」「胡徳」「抜頭」三面の舞楽面は、元亀2年(1571年)10月の織田信長の兵火からまぬがれた現存する往時のもので、桜堂薬師の歴史を立証する一方、県内においても貴重な文化財の一つです。なお、展示の舞楽面は、瑞浪市窯業技術研究所に依頼し、陶器で作られたもので、実物を二倍に拡大したものです。
当薬師が嵯峨天皇の勅願寺であった頃の全盛時から、今日までの歴史の集積とも言えるこの石塔群は鎌倉から室町時代に亘る貴重な石塔群であり、全盛時には三十六坊とも二十四坊とも伝えられた面影も今はなく、開山の三諦上人、中興の師永秀、賢秀師のほか、中興二世、中興三世の代々住職の供養塔を中心にして、かつて桜堂の各地、奥山の山中に跡を残す坊跡に散らばる苔むす五輪塔、宝匤印塔を拾い集めて祀ったのがこの石塔群である。
応永9年10月13日(1402年)の刻印のあるものもあるが、今や古老のなかの記憶となりつつある現在、かつての坊が地名として僅かに残っているに過ぎないが、私達地元民にとって、この数々の石塔が何故か坊の名前と共に身近に感じてならない。由緒ある桜堂の歴史と共に生きてきたこの石塔群を、坊名と共に次の世代に末永く守り引き継いで行くことを願う。
・本坊
妙法寺、根本地山安院、東乃坊、西乃坊、南乃坊、北乃坊、金泉坊、洞乃坊、満月坊、家乃坊、吉祥坊、杉本坊
・被官坊
中円坊、不動坊、里乃坊、よりき坊、じやがね坊、宝林坊、金剛坊、寂乃坊、大通坊、中陰坊、多聞坊、荒神坊
双生竹は箭竹類の「矢竹」で、地下根茎の隣接の節から発芽するので一見して一節双竿、「ふたごだけ」に見えるところからこの名がつけられています。株をなしている数本の竹幹を見ると、ほとんど太さや節間の揃っていることがわかります。こうしたことから昔から武士の間で矢竹として珍重され「神篦」「一鎌篦竹」などとも呼ばれました。
伝説によると源三位頼政が仁平3年(1153年)禁裏を悩ませた紫宸殿のヌエを見事射とめたときの矢も、自領のこの土岐の双生竹で作ったものであったといわれています。また、土岐町東部のことを今でも神篦と呼びますが、この地名も双生竹から生まれています。鶴ヶ城一帯に群生していたという双生竹も近年絶滅に近い状態です。
双生竹は、新潟県佐渡の矢島、瑞浪市が代表的な自生地です。