櫻堂薬師は2012年開基1200年です。

櫻堂薬師

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薬師堂の由来について

 お薬師様は、昔は「瑞櫻山法妙寺薬師堂」と言っていました。このお薬師の歴史は今から約1300年近く前から始まります。

 

 奈良時代(710年)元正天皇の皇女様がどうしても直らなかった悪い病気を、神のお告げで知ったこのお薬師に祈願されたところ直ちに良くなられ、喜んだ天皇は全国に薬師の信仰を奨励されたとの事です。この時天皇のお礼の手紙を持った勅使が渡られた橋の名前が勅使橋と言い、今はありませんが地名だけは残っています。

 

 約1200年前の弘仁3年の頃(812年)嵯峨天皇の勅願寺として「三諦上人」がこの薬師を開かれました。この頃、天皇が病気にかかられてこの寺の住職様の三諦上人に全快の祈願を願われたところ、すっかり病気が治り、天皇の命令でこの寺の修理・増築を指示され、お堂やお寺が二十六から三十六と言われるほど沢山なお寺が立ち並びました。そして「高野山」や「比叡山」と並び日本の三山と言われる様になり、毎日の読経の声が近所の村々にまで聞こえたと伝えられています。

 

 この全盛を極めたこの薬師も、その後約五百年の間(1300年頃)には戦乱が続き、お堂・お寺も次々と荒れて少なくなり、衰退してしまいました。しかし、この頃鎌倉幕府から、お寺の領地を頂いて修理・修復をし、お寺の数が二十四と以前の勢いを取り戻し比叡山の末寺となって続いていました。

 

 元亀二年(1571年)に武田信玄、織田信長の戦乱に巻き込まれ、信長の家来の兼山城主の「森長可」にこの薬師を焼かれてしまいました。後にこの様な歴史のある寺を焼いた事を悔んだ森長可と、鶴ヶ城主の土岐三兵信友が仏像の作成、修理をし復興がされました。

 

 西暦1600年の頃には、この辺りの殿様は岩村城の松平家乗・松平乗壽でしたが、とても信仰が厚く乗壽公は三度病気にかかれ、三度ともこの薬師にお参りして、すっかり良くなられたとの事です。そしてこの頃多くの絵馬が奉納されました。ところが乗壽公が静岡県浜松の方へ移られてしまい、それに加え悪い病気が流行し、人の心も荒び、この薬師も見る影もなく衰退してしまいました。

 

 そして60年位が過ぎた頃、天台の「永秀」と言う偉いお坊さんが立ち寄られました。昔の面影もない荒れ果てたお寺の姿を土地の長老から聞いて悲しみに耐え兼ね、この寺の復興を決意されます。しかしこの永秀師も病気にかかられてしまい、枕元には弟子の「賢秀」を京都から呼んで、何とかこのお寺を復興する様に望みを伝えられました。

 

 こうして永秀師の望みを聞いた賢秀も、復興する事を決意し岩村城主の丹羽式部少輔氏純にお願いし、寛文7年(1667年)に復興を遂げます。お開帳には比叡山の偉いお坊さんを招いての大法会、国内、近隣の参拝者の目を奪う程の盛大な法要であったそうです。

 

 隣接する「観音堂」は屏風山麓の大悲山に、峰山観音として祭られておりましたが堂宇荒廃を極めた為、移奉したものです。本尊、聖観音は鎌倉以前の作と伝えられております。本尊左側には開祖「三諦上人の座像」右側には中興開山の「賢秀座像」が祀られており、体内には中興の由来が詳細に記録されていると伝えられています。また、その横には岩村藩の松平和泉手乗寿公、丹羽家歴代の位牌が祭られております。

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